『イン・ザ・メガチャーチ』

遅ればせながら読みました。
朝井リョウさんの熱心なファンとは言えませんが、『正欲』がとにかく好きで『何者』で衝撃を受けたタイプの人間です。他いくつか読んでます。『何者』は映画もよかったですねぇ。

題材が今っぽくて界隈にもそれなりに?横目で見ていてなじみがあるため、どうしても「こういうの、あるよね〜」みたいな目線で読んでしまいそうになるのだが(特にSNS投稿のディテール部分、来年読んだら古く感じてしまうだろう言い回しも多々あり、鮮度がすごい)、それはあんまり良くないよなと思う。この話には男性も女性も若い子も中年も出てくるしみんな「当事者」ではあるのだが、どことなくそれら全体を俯瞰で包み込んで見るおじさんの目線を感じる。その傍観おじさんに自分がいちばん近い気がして、そこに嫌悪感があった(自分自身への嫌悪感です)。

傍観おじさんとは誰なのか?ついつい朝井さんなのではと考えてしまいそうになるが、それは結局私のような読者ということなのではないだろうか。結果としてではなく設定として。

またそういった「傍観者」の視点がありつつも、自分にも当事者の可能性があるという示唆の部分を常に置いておくという意味では『明日、私は誰かのカノジョ』ってやはり秀逸だったなと思ったりします。まあ、あれは令和のウシジマくんなので……

文中に、オタクの分類みたいなのが出てくるけど、私はそんなにどれにもハマっていないなという気がして、やはりオタクにはなれないのだろうかという謎の悲しみめいたものが滲むのだが、その滲んだ悲しみめいたものこそが、俯瞰の立場を許された証のような気もしてしまい、それが嫌ということなのかな。そして多くの、ほとんどの人がそうなのではないか。嫌かどうかは分かれるところだと思うが。

これは推し活の話である、メガチャーチの話である、物語を使った宗教勧誘の話である──としたときに、それらを揶揄するのは簡単であるように思うのだけど、そもそもハマってる人とそうでない人みたいな仕分けに抵抗があるのかもしれない。さんざん見てきているから。

こういう話題になるといつも『進撃の巨人』でリヴァイを育てていたケニー・アッカーマンの「みんな何かに酔っ払ってねぇと やってらんなかったんだな…」というセリフが浮かぶ。

推し活は滑稽であるだろうか、崇高であるだろうか。そのどちらかでなければならないのだろうか。

個人的に最近「ダメなものポルノ」みたいな空気をとても感じていた。礼儀を知らない人、空気を読めない人、的外れな人、そのあからさまな物語に「こんなこともできないのか」と熱狂するような空気。こいつはなんでこんなにダメなんだ?みたいな苛立ちにも似た驚きが、「自分は大丈夫」の保証にもなるような……そういうエンタメが今は求められているのかなぁと思うと切なくなるけれども、こういうのってこれまでなかったよなぁ(あったかもしれませんが)、人はやはり退屈したくないのだなぁとも思う。これは『イン・ザ・メガチャーチ』がドンズバって話ではないです。

『生殖記』もあわせて買っているのでこれから読みます。楽しみ。

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